学習という言葉を耳にするのは毎日の中でも嫌というほどよく聞く言葉である。僕のイメージだと、学習は学びという言葉と同義で、何かを身に着けるという意味でとらえている。
皆さんは学習というとどのような印象があるか。学びと学習は同じことを指していると考えるか。
僕は書いているうちにいったん、これに気になってその意味を辞典で調べることにしたので、学びと学習は以下のような定義がある。
学び:見習って知識・知恵・技術などを身につける。教えを受けて知識や技術を習得する。勉強する。経験を通して貴重な知恵を得る。
学習:学び習うこと。特に、学校などで基礎的な知識を系統的に学ぶこと。人間も含めた動物が経験を反復することによって環境に適応した行動などを習得していくこと。
(定義は明鏡国語辞典により)
字からすると、学習は学びと習いの両方とも学という字が含まれているが、この字から構成された語彙は僕には「learningあるいは何かを分かるようにする」という色合いが強く感じ取れる。両方の定義を見ても同類であると見るのもありと思いつつ、多少の違いは残る。その相違点に、学びは環境にとらわれずに経験をもって知識を得るその過程を指すが、学習は学校で決められた教案に沿った従業を受けてそれを反復することで知識を得るとあって、場所と体験の形に柔軟性が利くのが学びで、片方で我々がこれまで受けてきた教育体系のもとで得るものが学習であると僕は勝手に解釈している。
学びとは
ここで今井先生からの記事を少しだけ紹介したいと思う。今井先生は慶応大学で教鞭をとっている先生であり、学びの熟達度や言語獲得に至るまで幅広い分野にわたる研究を行う第一人者である。“「知識偏重」「暗記」教育に対する大いなる誤解”を題にしたこの記事は、日本のいわば記憶を重視した知識編集型教育について取り上げたものである。
昨今、これまでの教育は「知識偏重」との批判が続出している。それと同時に「active learning主体的な学び」という言葉も耳にするようになった。主体的な学びは要するに「共同で積極的に発言する学習形式」と受け取った様子が散見されるが、しかし、何をもってすれば実現できるかは深い議論がされずに、理解しようとする現状にあるように思われる。「主体的な学び」というからには「主体的でない学び」が前提になっている。
(続きは次回までにする)
active learningは、本末転倒で終わりを迎えるのか。
筆者が受けていた高等教育では、文科省が発表した2013年度の新curriculumを全国の高校にという動きはかつてあった。その最中に学校の先生もさることながら学習がその実験対象で学校が実験場になったのも同然である。従来のやり方となにが異なるかについて、まずは学生自身がパソコンを学校に持ち出すのが可能になり、個人でそれとを用いてインターネットにつながることで先生あるいは教科書に載ってあるタスクに取り組むころになる。また、教師は助言または学習者の疑問に対してアドバイスを挙げる役割を担っている。そもそも特定の教科または学習内容に惹かれていない学習は悲惨な状況に誘導する危険性があるように見える一方で、学びに意欲のある人なら、このやり方に還元しそうなものであると思われる。とはいっても、学習者は全科目に興味を持つかと言えばそんなことはないと誰でも経験によってわかるであろう。その結果、学生個人にもある特定の科目の中に偏りが著しくなるのが誰でも推測できる。
このcurriculumは僕の先生から話を聞いた限りでは、政府は日本の教育環境をまねて、平日の学習時間を長くする代わりに、宿題を全廃するだけでなく土曜日の学校時間をなくそうとしくものだということ。
一日の授業時間が長くなるため、生徒が学校に持つ本も必然的に増えるのがいうまでもなく重いし、また一日に数科目も教えられるわけだから、部活に興味がなく学校が終わるやいなや家に帰ってねたいものだった。